あたりまえ

▲この画像は、
私のfacebookのページの、
リンクシェアのひとつだ。
この投稿は、
「スイスの情報さん」という方からのリンクのシェアで、
私にはこの方のシェアする情報が、
facebookによって確認することができる。
私は、ひっきりなしにサーチすることはないので、
いくつかの情報は、すでに目に触れず流れていってしまっているだろう。
3/20に、ふと目に付いたこの原子炉の画像をみて、
純粋に、「どうするんだろう?」
まず、そのように疑問をもった。
そして、
つきなみだが、
これをシェアした際に
「ぐは。ど・ど・どないすんねん。」
と、ある意味、とらえようのないふうなコトバもそえた。
反原発派、推進派など、
今、どういうふうになっているか、わからないし、
そういった、思想自体に加担する気は毛頭ないのと、
そういう派閥の人から同思想と思われない、
外部からみて、不要な先入観や、
不要な偏りのないようにみせるための配慮である。
その後、その投稿に、
「いいね!」をもらったことで、
その御礼の気持ちと共に、少々コメントを書き込んだ。
以下の内容である。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「いいね!」ありがと♪
ねー。
こんなぶっそうなもの、
いったいだれが始末するんでしょうね・・・
それを子供に託すような親や社会の心境が理解できません♪
~いや理解すべきではないとおもったりします。
でも電気やエネルギーは必要ですし、
みんなでどうしたらよいか考えつづけないと♪
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
こう書き込んだことで、
自分としては、
「ただ漠然とシェア、その後放置、
そしていつかは流れてきえてゆく・・・」
こういった、
むなしい結末よりかは、
一人でも、
このコメントを目にして
なんかしら、
思うことを共有できるだろう、
そう、想像できたので、
だいぶ満足した。
そして、
さらに数日がたった。
ふと、
このシェア投稿のことを思い出し、
こんなことを考えた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
もし、あの投稿をスイス人がみたら、
どうおもうんかな。
ボクがコメントに書いた、
「物騒」という日本語の意味が、翻訳とかではたして理解できるのだろうか。
そしてなによりも、
ああいった物騒なものを期限付きではあるが、
稼動することになって、
当惑、困惑をしているのは、
むしろスイスの人たちこそ、だろう。
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そうおもったときに、
この問題について、
どうにもならない、どうにもできないにせよ、
真っ先に、感心をもち、
なんらかのリアクションがあって
然り、なのは、
日本人のほうなのではないか?
このように、
気付いた。
どういう「気付き」か、というと、
ふつう、
なんらかの物品を、
販売購入する際、
その販売購入物に
著しく問題があったような場合は、
それを、
返却
返品
引取
代替
もしくは
自動車なんかであれば、
リコール
する、
という制度も法的に存在するか、とおもう。
そのような、
基本的な物流について、
素人的に考え、
あの、「物騒」な、
半ば不良品ともいえそうな、
製造者自体が
「危険」の太鼓判を押してしまっている、
とんでもない代物を、
照し合せて想像してみた。
(企業対消費者、国家対国家、の差はここでは念頭にいれていない)
無論、
高額であるし、
しかも廃棄にかかわる経費や、
その廃棄解体手法もその経年数も予測ばかりで、
事実や前例を歴史的に伴っていないものであるから、
不完全で特別な「法」として、
先に言った、
「一般の物流」のそれとは、
異なった、
ガイドラインがあるのだとは、素人的にも、
ある程度推測できる。
その、
「要修正」状態のガイドラインによって、
あの「物騒」なモノが、
しっかりと保護されているんだろうな。
「決まりは変えられない」とかなんとか、
そんな無能?か、もしくは止む無い、理由までも、
縛り縄でぎっちり締め上げた、
「おまけ」となって附いて回っているにちがいない。
(↑素人的な偏った「想像」とその「表現」です♪)
しかし、
それだからといって、
専門家にすべて依存してよいかどうかは、
周知のとおりであるとおもう。
我々自身、自分の身を護(まも)るためには、
ある程度の知識を伴おうとする行為は、
今現在、全くもって可笑しなことではない。
であるから、
私は素人なりに
考えたんだ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
あの、
『物騒』なモノが、
ああやってスイス国で、
稼動するしか方法がないのは、
生産国の「法」や、
購入国の「法」において、
一般の物流の常識から除外されている、
特別な「法」の、存在によって、
それ以外、なす術がない状況を作り出している、
そういったことも、
エネルギーの需要供給に絡んで、
起因しているんだろうな。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・・・ここまでは、
たぶん事後に少しずつでも調べることで、
その言おうとしている理由の明確さ、や、正確さ、
自分の言っていることの、見通しの適不適の加減や、
予測の曖昧さ、誤った表現なども含め、
なんらかの確証みたいなものも付いてくる、
ある程度の正しい理解にこぎ付けることができる、
そう思える。
・・・長い講釈になったが、これが、
私なりの日本人としての「気付き」である。
そして、
もう少しだけ、
触れておくけども、
素人レベルで明確にならない問題は、
廃棄場所、廃棄手法、
放射性物質の消滅までの年数と数値、
その実例など。
これらに関する前例、前歴が、極めて少なく、
ましてや経験談などは、核実験のケース、
チェルノブイリ事故関連に限られていて、
この点については、
いくら話しを聞いても解説を受けても、
予測を超えることはなく、当然実感も伴えない。
また、今後の開発研究次第か?とも思えてしまう。
これら、
明確にならない問題は、
私のこの記述では特にこれ以上は触れない。
この後いつの日か、欲を出して触れるかもしれないし、
でも、できれば私以外の人の力をあてにしたい、
そうおもっている。
もちろん、それまでに個人的に出来ることはやる。
で、
私の言いたい、
「思いついた」
「書き留めて」おく、
とした、
その本題に
これから触れる。
---------------------------
【本題とは】
こういうことなのです。
「書こうよ」「語り継ごうよ」
まず、このふたつ。
私のさっき書いたことは、
なにひとつ苦労をともなっていない。
めんどくさい調査もしていないし、
専門的なことも添えていない。
時間もかけていない。
ごく「思ったこと」を、
「気付いた」時に、
「可能な範囲の表現」を、
用いて書いただけなのです。
政治や、専門家が、
当てになる、ならない、は、それはそれで、
そういう題目でもよいとおもう。
素人目線のほうがよりよい、と思ったりする。
読みやすい、同調しやすい、理解しやすいから。
言い方や、表現違い、間違いに気付く、
過度な思い込みに自ら気付く、
あるいは相互に気付くというのも、
とても大切なことだ。
問題なのは、
つい、
うっとおしくなったり、
つい、人目が気になってしまったり、
間違いを書いたりしてはいけないのではないか、
恥や汚点になるのではないか、
そういう漠然としたところ、
不安みたいなコトから、
自然と「おっくう」なところ、
「おっくう」なコトに、落ち込んでゆく、
陥ってゆくのだ。
継続性を、
個人で背負い込むこともない。
ただ、
誰もが、
何かしらは感じて、
思っているコトなのだから、
下手でも、
間違いが所々あっても良いから、
「書き始める」
ということなのだ。
身近なところのことからで
いいんだとおもう。
私が、
こんなふうに書くまでもなく、
すでにそのように実行されている方も、
勿論たくさん居られる、そう思っている。
「書き始める」
そして、
次に、
「読んであげる」
「読みに行く」
そして、
次に、
「コメントを添える」
これを、
少しだけ
「ココロに留めておいて」もらって、
あとは普通に
いつもどおりでいい。
そうしているうちに、
行政や教育機関にすべて責任を
押し付けることなく、
こうした、
weblog ブログや、
facebook, twitter, mixi,
などで、
みんなのコトバで、
みんなの体験が、
みんなのその時々に思うことが、
語り継がれ、
そして何よりも、
自分がそのことについてどう思っているのか、
どう思っていたのか、が、
自分で確認することができる。
誤りは
指摘してもらおうよ。
考えが変わったら、
ただ、
「考えが変わった」と、
そう書こうよ。
間違いに気付いたら、
「間違いだった」と。
そう思い込んでいたことが、
不明瞭であったならば、
「こう思ってたんだけど、どうやらはっきりしない」と。
ただ、そう書いておこうよ。
そこから、
正しい知識が、
正しいことや、
過去の過ちが、
より正しい形で、
子孫に伝わる、
子孫に伝えるための、
データベースがきっと自然に構築されてゆく。
行政や教育機関には
管理分野の多くの中の「ひとつ」として
それこそ、そのデータベースの、
滞りない運営を期待したい。
こういうことは、
危惧するのではなく、
たったひとつ、
「気に留めておく」
「そうなるように願う」
そこから、
みんなで、
できるだけ多くの人と
可能なだけの時間を費やして、
経由して、
構築する、
そうするしか
今できる方法がみあたらない、
いま、私はそんなふうに感じている。
最後にまとめます。
「書く」
「読む」
「コメントする」
「気に留めておく」
「そうなるように願う」
これだけ。
「なにが?」「なにを?」
とは、もう私はここでは書かない。
読んでくれて、
ありがとう。
自分のためのコトだけれども、
自分に行動指令をするために、
こういう記事を書く、
ということが、
「思い付いた」こと
「書き留めて」おくこと
なのでした♪
またそのうち、
同じようなこと書こうかな。
それがいいかな、
そんなふうにも
今、書きながら
こうしてまた少しだけ思う。
もしかしたら、
無言の人、
書く時間のないひと、
みんなそれを、
待っている、
今書ける人に期待している、
そういうことなのかもしれないよね^^
それとあと、
書けない、
書くまで都合のつかない人の、
書いている人へ向けた、
一見安易で、不適切とも受け取れる、
助言や言い回しがあったとしても、
書くことができている側が、
それを受けて腹を立てたり、
高い位置に立って、
それを見下してしまっては、
書けなかった人が
これから書こうとも
思えなくなってしまうかもしれない、
そんなところをココロに留めて置きたいかな。
【#ohayo】
■title : #ohayo
■著作・制作/うたと演奏 鈴木亮司 © Ryoji Suzuki 2011-2012
■歌詞 まさる & まーる/Ryoji Suzuki © 2011-2012
■この曲の⇒歌詞を見る

≪おわり≫
Ryoji Suzuki(^o^)♪
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この記事へのコメント:
流木庵
Date2012.03.28 (水) 06:37:12|編集
ブログに興味がなくなってきている
自分を思う
▲_▲ ((((^∇^;) ススッo (/・0・)
/Φ Φ\
Ξ♀Ξ/ (=^0^=)/ ドモニャン♪
/ ̄ \ ∩
| | ( \)) 流木庵より
ω ω c/
Re: >流木庵さま♪
Ryoji Suzuki
Date2012.03.28 (水) 10:42:32|編集
こんにちは。
コメント有難う御座います<(_ _)>
自分独自のペースと、
みなさんに合せたペース。
その中間もありますし、
それらの使い分けで
コントロールする手もありますね。
ただ、
疲れてくると、
アップしたくないのに、
やたら連続投稿したり、
いらいらしてしまうのを、
我慢して制御して、
かえって自分にストレスをかけ
悪循環させることもしばしば。
このような状態に陥ったボクを
助けてくれるのはwebのお友達です。
ボクは、
webのお友達に頼ることで、
そのへんのコントロールを、
依存する期間を導入しています。
相手から見た感じ、
『状況が悪いから少しwebから離れろ』
という、
客観的な指示を賜るんです。
webログのアップデートの慣習は、
とかく、孤立したかのような、
妄想に陥りやすい環境ですから、
どんどん、外部の意見を取り入れましょう♪
一時的に
短期でも長期でも、
更新のペースをランダムにして、
気が向いたときだけ更新するのが、
自分の精神状態を見極める、
ひとつの指針になるかもしれません
ボクの
自分自身の更新ペースは
月1回~数回程度が最適です♪
Ryoji Suzuki(^o^)♪
まーる
Date2012.03.29 (木) 16:35:48|編集
記事、何度か読ませてもらって
感じたこと、考えたこと、思い出したことがちらほらと・・・。
震災があって、去年の今ごろだったか、わたしも
原発のことで自分の思うことを少しだけ記事に書いた。
どちらかというと“反原発”寄りな感じの、ね。
で、今は
反原発とか推進とか、そこの部分ではなく
違ったところでちょっと思うことがある、というか・・・
それで、わたしはわたしで
どっち、ということの「思想自体に加担する気」はない、と
そう思っているような気がする(´,,・ω・,,`)
感じること、思うことを「書き始める」
間違っていてもいいじゃん、考えが変わってもいいじゃん、って
ホント、そうだよね('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
確かに、りょうちゃんの言うように
間違いや、恥、汚点となることを不安に思って
書かない、書けない、ってこと、あると思う。
でも、ひとつ思い出したことがあって・・・。
友だち(Aさん)の友だち(Bさん)が、やっぱり去年の今ごろかなぁ?
原発について思うことを書いてみたら「批判」を受けてしまったらしい。
Bさんは、批判される、なんて思ってもみなかったから、とても傷ついたし
それを見たAさんは、Bさんを批判した人たちを「批判」したの。
なんていうか、そうやって
普通はやっぱり、いい、悪い、って話になりがちで
いい、悪い、に対しての、賛成、反対、が出てきて
反対、に対しての「批判」や「攻撃」なんてことも・・・(´・ω・`)
んで、誰だって「批判」されたり「攻撃」されるのはイヤだし、怖いから
言わない、書かない、とか、無難なことだけ、とか
そんな風になっちゃう、なんてこともあるんじゃないかなぁ?と。
この記事を読んでみて、そんなことを
思い出してみたり、思ってみました。
それはそうと
「書く」「読む」「コメントする」
(「気に留めておく」「そうなるように願う」)
これって、原発のことに限らず、社会の、世の中の問題に限らず
自分のことや、どんなことも、なんでも
変わらないよな、同じだよな、って、そう思った(°∀°)b
せっかく、こうしてブログetc.を楽しんでいるんだもんね♪
やっぱりブログって素敵だなぁ、って、スゴイなぁ、って
そこにつながっちゃったわたし、でしたヽ(゚◇゚ )ノ (笑)
恐ろしく長いコメントを書いてしまい
ごめんなさい<(_ _)>
そうそう・・・
こんなに素敵な記事に添えられた曲が
#ohayo
だったこと、これがまた嬉しすぎて
涙、でした(TωT)~♪ ありがとう。
Re: >まーるちゃん♪
Ryoji Suzuki
Date2012.03.29 (木) 20:37:29|編集
こんばんは。
コメント有難う御座います<(_ _)>
例えば、
このお返事に対しても、
━━━━━━━━━
おう!
ぜんぜん
ながくなんかねーぜ!
どんどん
かきこみやがれ!
━━━━━━━━━
なんて、
ダミ声が響きそうな、
乱暴な感じのする、
書き込みも
ちょーコはいよね♪
こうして
冗談で書いたつもりでも紙一重。
見る人が見ると
「まぎらわしい」
「うっとおしい」
わかっていてても「ムカつく」とも。
とても良い、
メッセージを有難う御座います。
そうでしたか、
「批判」の「批判」ですね。
正義のココロから、
ムクムクと湧き上がってくる、
『アレ』ですよね。
ボクはあまり
出くわしたこと、ないかも、
だけども、
このメッセージをご覧になる方で
渦中に身を置く機会の多い方も
もしや居られるかもしれません。
軽はずみな
発言や表現は控えよう、
そうも思います、
自分に対する戒めも
ボク自身欠けている。
(時々暴走してしまうしね)
このエントリを
書いたとき、
「批判」の「批判」、
「批判」に関するコメントを想像しなかった。
おもいもよらなかった。
だから、
このエントリの
欠けていたところを
補ってくれてほんとうに有難い♪
逆手にとるならば、
批判を呼び込む、という書き方もできるんだね♪
--------------------
(ここから「独り言」みたいなのを、書いておくね)
文書の
「見え方」「見せ方」は、
一人の考えや、
「確認」
「読み直し」
「書き直し」といった、
自己動作の反復だけでは、
自分の「盲点」に気がつかない。
また、
そういったことを
特定の誰かに
伝えるだけでも、
「その人のツボ」を、「ついて」あげたり、
その人が、
冷静になれる一言を用意したり、
時をあえて寝かせたり、
(「熱いうちは意図的に避ける」とかだよね)
その人のココロの状態を汲み取って、
適時を選んで促したり。
それだけ、
できるだけのことを、
思いつく限りのことを
幾重にも幾重にも
考え尽くして、
寄り添おうとしても、
まったく通じないことさえある。
ボクから、
他の人に対してもあるだろうし、
他の人からボクに対してもそう思うことだって、
あるだろう。
--------------------
(少しだけ本題に戻るね)
「思想自体に加担する気」はない、
これ、難しいよね。
「思想自体に加担する気」はない=「書かない」ということでは決してない。
いずれにせよ、
書くこと、
いわゆる「能書き」の先行は「ナンセンス」=『実行しろよ』ベースの思想。
こいう考え方もあるかもしれない。
今はこうして
明るみに拡大鏡をそえて、
落ち着いた静かな心持ちで
そろえた材料を一つ一つ吟味しながら、
誤りは消し、
曖昧は追跡し、
より造詣に深く、
自己のおもうがままに形作り、
さらに加えて出来る限りの他者の意見を、
想定、練りこむことで、
より、完成度の高い文書は構築できるかもしれない。
ところが、
文書の役割は
それだけではない。
暗がりの中、
使える単語も制約され、
辞書もなければ、
インクも紙もわずか、
そういう状況でも、
適切な伝播手段としての役目を担うのもまた、
同じくして、
「文書」すなわち「コトバ」だったりもする。
武器や兵器で、
身体を傷つけ合うくらいなら、
コトバの罵り合いなど
可愛いものだし、
たったひとつの
コトバを苦に身を投げる人だっている。
なにも考えずに
手軽に口ずさめるもの、「コトバ」。
なにも考えずにでも
口にして相手を苦しめる
凶器と化することすら可能なのも「コトバ」。
・・・うんうん。
いつも有難う。
たくさん思うことが生まれてきたよ♪
※「あたりまえ」というタイトルは
自分に戒めようとして用いたけども、
必ずしもそうは伝わらないよね、
と、自分では事後にそう思える♪
(ボクからのコメントのお返事に特に結論はないよ、
今日は少し甘えて散らかした儘、終わりにしてみるね
コメントを添えてくれた、
それだけでなににも勝り感謝なのです<(_ _)>
Ryoji Suzuki(^o^)♪
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