RAGA TYPE Z
ねむれないめいめい

・・・で。
RAGA TYPE Zとは;
前回のエントリで触れた、RAGAROCK。
その前のエントリでは“RAGA TYPE Z”について
ひとことだけふれた。
“RAGAROCK”を演奏するのに、
当時のオリジナルメンバー全員が
いつでも揃うわけではないんだ。
ここで、
こういった場合、
“RAGAROCK”を名乗るか、とか、
そうでないかは、
ボクはあまり重視していない。
そこに条件もつけていない。
RAGAROCKを良く知る一部の方には
そこで賛否両論があるのかもしれないし、
そうでもないのかもしれない。
RAGA TYPE Z というネーミングは・・・

・・・で。
RAGA TYPE Zとは;
前回のエントリで触れた、RAGAROCK。
その前のエントリでは“RAGA TYPE Z”について
ひとことだけふれた。
“RAGAROCK”を演奏するのに、
当時のオリジナルメンバー全員が
いつでも揃うわけではないんだ。
ここで、
こういった場合、
“RAGAROCK”を名乗るか、とか、
そうでないかは、
ボクはあまり重視していない。
そこに条件もつけていない。
RAGAROCKを良く知る一部の方には
そこで賛否両論があるのかもしれないし、
そうでもないのかもしれない。
RAGA TYPE Z というネーミングは・・・
・・・今回はボクが命名(めいめい)した。
先月(2014年3月)の半ばのことである。
RAGA TYPE Z。
このネーミングの由来をお話しする。
今回の出演にあたり、
HIROKAZさんが一番に『オレやる♪』
と言ってくれたところから
ことの運びがすんなり決まった。
RAGAROCK の楽曲を演奏する、
そのことになったのも、
HIROKAZさんが「ドラムを入れよう」
と言ってくれたところも大きな要因。
また実際、HIROKAZさんも、
“RAGAROCK”という名前を
今回のやりとりで度々ボクにお話ししてくださった。
ここでボクの当時の想い出話。
HIROKAZさんが
当時“●● TYPE Z”みたいな
名前を付けることがたまにあったので
そんなことを思い出したんだ。
“RAGA TYPE~”の名称は、
今回の“RAGA TYPE Z”の他、
楽曲名にも反映してある。
今回の演奏曲目にはないが、
“RAGA TYPE-A”
“RAGA TYPE-B”
という2つの曲がある。
“RAGA TYPE-A”は、
1990年頃、「大宮フリークス」の主催の
オムニバスアルバムに挿入した、RAGAROCKの当時の楽曲。
“RAGA TYPE-B”は、
昨年(2013年)制作したボクのオリジナル(etude)曲・・・
・・・あ、そうか。
“RAGA TYPE-A”メニューにいれればよかったかな。
いや。
この曲は「しんちゃん(パート:guitar)」がいるときかも?かな♪
・・・私事でした。
その『RAGA TYPE-A』
▼今回はここで聴いてみてください♪
【今日の音楽:RAGAROCK】
≪今日の音楽について≫
title ; RAGA TYPE-A
「大宮フリークス※」のオムニバスに収録した楽曲。
※「大宮フリークス」・・・サイタマ大宮の大きなライブハウス。1992年まで営業。
≪『破壊』について:≫
前回エントリで触れた
『破壊』について
もう少し書いてみよう。
今回の“RAGA TYPE Z”のライブをやるのに、
ミカヅキレコードプロデューサーの
宮崎さまから激励のメッセージを頂戴した。
Ryoji君が(ブログで)いうとおり
たしかに嘗ては『破壊』であった、と。
そして今でも大テーマは『破壊』である、と。
そのメッセージに込められたことを
任意の皆様に向け
この場で的確に表現することは
そうカンタンなことではない。
ただ『思いはひとつ』。
ここは、ボクも宮崎さんもお互い共通している。
『破壊』そのものの意味合いに、
任意の方からは
りょうちゃんのまわりは
“恐ろしい人だらけ?”
というイメージをもたれるかもしれないので、
そこのところに今回は“自説”を用い特に触れておこう。
(「陰陽」「光と影」「光と闇」を対比表現に用いますが、
あくまでも“自説”に基付くもので自由イメージ上での表現です。)
【( ・ω・)っ難しいお話にチャレンジ♪】
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♪カグラザカァヽ( ・◇・)_♪いらっしゃい♪_(・ω・ )っエドガワバシッ♪
ホウジチャ( ・ω・)_旦~~どーぞ♪







【何を破壊するの?】
本当に恐ろしいものは、
我々の目の前の実生活に存在していたり
我々の内面にある“影”の存在のことだ。
光と影。
陰と陽。
「陰と陽」ではお互い存在することでひとつ、と見る。

『陽』が存在するのに『陰』はつきものだ。
『陰』が必要、と言ってもいいだろう。
光のあるところに影はできるし、
暗闇でこそ光の存在は認めることができるからだ。
光の中での光はみえない。
「陰と陽」
そのバランスが崩れると、
『陰』の勢力に『陽』は制圧される。
光は影の存在を厭わないが、
光を失ったところでは闇が生じる。
闇は光る力の弱いものを全体から覆い尽くす。
やがて闇は
光が消えるのを
造作なく待ち、のみ込んでしまう。
それは限りなく『消滅』に近付くことを意味する。
『消滅』したくなければ、
光は常に光続けることで光になることができ、
そこにまた自然と影があらわれる。
『陰』は『陽』の側からすれば、
ごく自然なエネルギーで
『陽』と正反対のところに価値をおき、
そのさまを滞りなく遂行してくる。
先ずここが『陽』とは根本的に違う。
「滞りなく」である。滞るのは我々が得意ワザなだけだ。
「悪習慣」や「悪癖」を一例として思い浮かべても良い。
抵抗しなければ今すぐにでものみ込まれる。
「光」をのみ込み灯(あか)りを消し尽くすことさえ、
「闇」には、そこに抵抗、滞りなどなく又悪意もない。
ところが。
『陽』はやっかいなことに、
『陽』の基準で物事を創造し、そうした上で尚、
『陰』の理解要素と正反対の方向に
『陽』の言い分を『陰』に押し付けることがある。
『陽』の立場における2元性、
「善・悪」を用いた場合、
今で言うところの『平和』とか『正義』が、
「善」の要素になり、『闇』に対し、
ほぼ無条件で「善」を要求する傾向にある。
「私たちが正しいのだ」と。
これは、『闇』にとっては、まったく次元の異なる理解できない要求だ。『光』の側でこの次元の争いをする限り未来は永遠に見えない。『闇』にとっては『光』をのみ込み支配する、制圧するようなことが、当り前のエネルギー作用なので、『平和』とか『正義』の概念がない。『闇』にとって、仮にもしあるなら、すべては“悪にありき”という『正義』だ。例えば史実の「残虐な行為」を理解できるものは『陽』の側にはいないだろう、それさえも『闇』の側からみれば『成すべき正義』であった、ということを。『陰』にとってもっとも理解し易いのは、『陽』の側で言う『制圧』や『支配』という要素だ。『制圧』や『支配』が如何なることか、を、『陽』の立場でその真理を理解追求し、『陰』の側から見るその理解に届く強い戦いを挑むのなら、『陰』は『陽』の存在を認識し、それか『陰』の側での「バランスをとろうとしている意志」のように捉え、自らパワーバランスをとるために『陽』の側からみた、『制御的要素』としてみえるカタチを示してくるだろう。示す、というよりこちらが勝手に「そう捉える」、「そういうふうに見えてきた」という感じで。
これはどういうことかというと。







我々の内面で仮定する。
あくまでも例として用いるが、
『陽』を我々の日常に置き換えた場合、
『平和』に浸かるあまりに、
『戦い』ということの根本を忘れてしまうところのことだ。
『平和』とは『戦い』を失くするための『平和』ではない。
『戦い』を失くするための『平和』とは、
今や、
不当な権力に対し言い成りにならない、
自分で判断できる素質を持つ者の、
手足を捥(も)ぎ、多数の
平和ボケの不能のヤカラを排出する、
いわゆる『洗脳』のこと他ならない。
またその『洗脳』に無自覚で加担している者の
ココロに根付く『闇』の中の『平和』も指そう。
『平和』を守るのには
『平和を望まない者』と、
『平和を知ろうとしない内心』
『平和を守ろうとしない内心』
との
永遠の『戦い』が存在する、
「常に戦い続ける」ということを、
常に自覚をもって知っておかなければならない。
ココでいう『戦い』とは、世で言う、
銃や兵器を用いた『殺戮』や『戦争』を指しているのではない。
主たるものは人間ひとりひとりのココロの中の『戦い』のことだ。
ココロの中の『陰』は、
『陽』側から強く『戦い』を挑むことで、
バランスを保つ、ということを『陰』自ら知る。
不思議なことに『陰』の側からは、
『陽』が戦いを挑んでいる、とは見えておらず、
『対等な意識で対話を望んでくれた』と解釈するであろう。
『陰』の側からの本当の見え方は『陽』である我々には実はわからない。
ただ、『陰』がバランスを保つような動きをする、
そのように『陽』が納得するというところである。
世に『平和』観が多く充満してくるときこそ、
我々はその危険を気付かなければならない。
“『破壊』を恐れるな”
つまり常に自己の内面にある、
『影』に対し『破壊』を挑み続けることが、
我々の望む、『光』が望む、
平和を求む者の、あくなき『挑戦』である、
というところのことである。
この見方のことについては
いかなる表現もよいだろう、
『恐れ』を破壊する
『不安』を破壊する
硬い『殻』を破壊する
見てくれだけの『正義』を破壊する
鼓舞狂騒侵略を目的とした『美化推進』を破壊する
自らの利潤目的のお仕着せ『平和運動』を破壊する
進化を止めようとする『報道』を破壊する
自己を縛り付けるその『自我』を破壊する
知らないを理由とした『無責任』を破壊する
人を不当支配しようとする『権力』を破壊する
我々を必要以外に管理強制する『時間の観念』を破壊する
想い出が来るべき未来を阻むならその『想い出』さえも破壊しよう。
真理的な平和とは安泰したものではなく、
常に自己と戦い続けることができるものに
感じることができる一瞬の安寧のことだからだ。
我々はその一瞬を永遠に夢見、現実化し、
継続することにも生を受けた目的を感じることができるであろう。
真の平和はそこにある。







と、このような自身の過去の“考え方”にも、
『破壊』という表現を多々用いることもあるのです。
ココでの話し、
ボクが自身に持つ“自説”だけれど、
そこに真実もあるかもしれないし、
言うボクも、聞く方も、
ちょっとしたとらえ方を誤ることで、
真実との「タガが外れる」こともあるでしょう。
ボクはこれからもそれを見極めていく人生を送るのでしょう・・・
って、言っても。
でも『破壊』はボクはたぶん苦手だね。
音楽での表現について、のことなのかなぁ。
『破壊』のコワさを表現することで、
『破壊』を知ろうとしていたのかもしれない。
ボクの正誤も含め皆様もご自分のココロと相談してみてね。
で。
自身が何をどう言うのもいいけども。
・・・でも。
本当はココが一番たいへんなんだけれど。
もし本当に『破壊』してしまったのなら。

“♪コワレマチタ( TωT)っ凹△凸□_(TωT )アウー♪”

ってなるので。
きちんと「後片付け」しなきゃね♪
ちゃんちゃん♪







今日のイラスト:

▲windows paint で描いた。
難しかったし、まだいびつ。
ご来訪有難う御座います。
Ryoji Suzuki(^o^)RAGATYPE-Z♪
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先月(2014年3月)の半ばのことである。
RAGA TYPE Z。
このネーミングの由来をお話しする。
今回の出演にあたり、
HIROKAZさんが一番に『オレやる♪』
と言ってくれたところから
ことの運びがすんなり決まった。
RAGAROCK の楽曲を演奏する、
そのことになったのも、
HIROKAZさんが「ドラムを入れよう」
と言ってくれたところも大きな要因。
また実際、HIROKAZさんも、
“RAGAROCK”という名前を
今回のやりとりで度々ボクにお話ししてくださった。
ここでボクの当時の想い出話。
HIROKAZさんが
当時“●● TYPE Z”みたいな
名前を付けることがたまにあったので
そんなことを思い出したんだ。
“RAGA TYPE~”の名称は、
今回の“RAGA TYPE Z”の他、
楽曲名にも反映してある。
今回の演奏曲目にはないが、
“RAGA TYPE-A”
“RAGA TYPE-B”
という2つの曲がある。
“RAGA TYPE-A”は、
1990年頃、「大宮フリークス」の主催の
オムニバスアルバムに挿入した、RAGAROCKの当時の楽曲。
“RAGA TYPE-B”は、
昨年(2013年)制作したボクのオリジナル(etude)曲・・・
・・・あ、そうか。
“RAGA TYPE-A”メニューにいれればよかったかな。
いや。
この曲は「しんちゃん(パート:guitar)」がいるときかも?かな♪
・・・私事でした。
その『RAGA TYPE-A』
▼今回はここで聴いてみてください♪
【今日の音楽:RAGAROCK】
▼RAGA TYPE-A
[03min55sec]
◆title : 『◆RAGA TYPE-A(作詞:MAR,作曲Ryoji)』

■著作・制作 / RAGAROCK・MAR・鈴木亮司 (c) Ryoji Suzuki 1991-2014
←HIROKAZ movie, title is"kgs"♪ |
≪今日の音楽について≫

「大宮フリークス※」のオムニバスに収録した楽曲。
※「大宮フリークス」・・・サイタマ大宮の大きなライブハウス。1992年まで営業。
≪『破壊』について:≫
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『破壊』について
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今回の“RAGA TYPE Z”のライブをやるのに、
ミカヅキレコードプロデューサーの
宮崎さまから激励のメッセージを頂戴した。
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たしかに嘗ては『破壊』であった、と。
そして今でも大テーマは『破壊』である、と。
そのメッセージに込められたことを
任意の皆様に向け
この場で的確に表現することは
そうカンタンなことではない。
ただ『思いはひとつ』。
ここは、ボクも宮崎さんもお互い共通している。
『破壊』そのものの意味合いに、
任意の方からは
りょうちゃんのまわりは
“恐ろしい人だらけ?”
というイメージをもたれるかもしれないので、
そこのところに今回は“自説”を用い特に触れておこう。
(「陰陽」「光と影」「光と闇」を対比表現に用いますが、
あくまでも“自説”に基付くもので自由イメージ上での表現です。)
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本当に恐ろしいものは、
我々の目の前の実生活に存在していたり
我々の内面にある“影”の存在のことだ。
光と影。
陰と陽。
「陰と陽」ではお互い存在することでひとつ、と見る。

『陽』が存在するのに『陰』はつきものだ。
『陰』が必要、と言ってもいいだろう。
光のあるところに影はできるし、
暗闇でこそ光の存在は認めることができるからだ。
光の中での光はみえない。
「陰と陽」
そのバランスが崩れると、
『陰』の勢力に『陽』は制圧される。
光は影の存在を厭わないが、
光を失ったところでは闇が生じる。
闇は光る力の弱いものを全体から覆い尽くす。
やがて闇は
光が消えるのを
造作なく待ち、のみ込んでしまう。
それは限りなく『消滅』に近付くことを意味する。
『消滅』したくなければ、
光は常に光続けることで光になることができ、
そこにまた自然と影があらわれる。
『陰』は『陽』の側からすれば、
ごく自然なエネルギーで
『陽』と正反対のところに価値をおき、
そのさまを滞りなく遂行してくる。
先ずここが『陽』とは根本的に違う。
「滞りなく」である。滞るのは我々が得意ワザなだけだ。
「悪習慣」や「悪癖」を一例として思い浮かべても良い。
抵抗しなければ今すぐにでものみ込まれる。
「光」をのみ込み灯(あか)りを消し尽くすことさえ、
「闇」には、そこに抵抗、滞りなどなく又悪意もない。
ところが。
『陽』はやっかいなことに、
『陽』の基準で物事を創造し、そうした上で尚、
『陰』の理解要素と正反対の方向に
『陽』の言い分を『陰』に押し付けることがある。
『陽』の立場における2元性、
「善・悪」を用いた場合、
今で言うところの『平和』とか『正義』が、
「善」の要素になり、『闇』に対し、
ほぼ無条件で「善」を要求する傾向にある。
「私たちが正しいのだ」と。
これは、『闇』にとっては、まったく次元の異なる理解できない要求だ。『光』の側でこの次元の争いをする限り未来は永遠に見えない。『闇』にとっては『光』をのみ込み支配する、制圧するようなことが、当り前のエネルギー作用なので、『平和』とか『正義』の概念がない。『闇』にとって、仮にもしあるなら、すべては“悪にありき”という『正義』だ。例えば史実の「残虐な行為」を理解できるものは『陽』の側にはいないだろう、それさえも『闇』の側からみれば『成すべき正義』であった、ということを。『陰』にとってもっとも理解し易いのは、『陽』の側で言う『制圧』や『支配』という要素だ。『制圧』や『支配』が如何なることか、を、『陽』の立場でその真理を理解追求し、『陰』の側から見るその理解に届く強い戦いを挑むのなら、『陰』は『陽』の存在を認識し、それか『陰』の側での「バランスをとろうとしている意志」のように捉え、自らパワーバランスをとるために『陽』の側からみた、『制御的要素』としてみえるカタチを示してくるだろう。示す、というよりこちらが勝手に「そう捉える」、「そういうふうに見えてきた」という感じで。
これはどういうことかというと。







我々の内面で仮定する。
あくまでも例として用いるが、
『陽』を我々の日常に置き換えた場合、
『平和』に浸かるあまりに、
『戦い』ということの根本を忘れてしまうところのことだ。
『平和』とは『戦い』を失くするための『平和』ではない。
『戦い』を失くするための『平和』とは、
今や、
不当な権力に対し言い成りにならない、
自分で判断できる素質を持つ者の、
手足を捥(も)ぎ、多数の
平和ボケの不能のヤカラを排出する、
いわゆる『洗脳』のこと他ならない。
またその『洗脳』に無自覚で加担している者の
ココロに根付く『闇』の中の『平和』も指そう。
『平和』を守るのには
『平和を望まない者』と、
『平和を知ろうとしない内心』
『平和を守ろうとしない内心』
との
永遠の『戦い』が存在する、
「常に戦い続ける」ということを、
常に自覚をもって知っておかなければならない。
ココでいう『戦い』とは、世で言う、
銃や兵器を用いた『殺戮』や『戦争』を指しているのではない。
主たるものは人間ひとりひとりのココロの中の『戦い』のことだ。
ココロの中の『陰』は、
『陽』側から強く『戦い』を挑むことで、
バランスを保つ、ということを『陰』自ら知る。
不思議なことに『陰』の側からは、
『陽』が戦いを挑んでいる、とは見えておらず、
『対等な意識で対話を望んでくれた』と解釈するであろう。
『陰』の側からの本当の見え方は『陽』である我々には実はわからない。
ただ、『陰』がバランスを保つような動きをする、
そのように『陽』が納得するというところである。
世に『平和』観が多く充満してくるときこそ、
我々はその危険を気付かなければならない。
“『破壊』を恐れるな”
つまり常に自己の内面にある、
『影』に対し『破壊』を挑み続けることが、
我々の望む、『光』が望む、
平和を求む者の、あくなき『挑戦』である、
というところのことである。
この見方のことについては
いかなる表現もよいだろう、
『恐れ』を破壊する
『不安』を破壊する
硬い『殻』を破壊する
見てくれだけの『正義』を破壊する
鼓舞狂騒侵略を目的とした『美化推進』を破壊する
自らの利潤目的のお仕着せ『平和運動』を破壊する
進化を止めようとする『報道』を破壊する
自己を縛り付けるその『自我』を破壊する
知らないを理由とした『無責任』を破壊する
人を不当支配しようとする『権力』を破壊する
我々を必要以外に管理強制する『時間の観念』を破壊する
想い出が来るべき未来を阻むならその『想い出』さえも破壊しよう。
真理的な平和とは安泰したものではなく、
常に自己と戦い続けることができるものに
感じることができる一瞬の安寧のことだからだ。
我々はその一瞬を永遠に夢見、現実化し、
継続することにも生を受けた目的を感じることができるであろう。
真の平和はそこにある。







と、このような自身の過去の“考え方”にも、
『破壊』という表現を多々用いることもあるのです。
ココでの話し、
ボクが自身に持つ“自説”だけれど、
そこに真実もあるかもしれないし、
言うボクも、聞く方も、
ちょっとしたとらえ方を誤ることで、
真実との「タガが外れる」こともあるでしょう。
ボクはこれからもそれを見極めていく人生を送るのでしょう・・・
って、言っても。
でも『破壊』はボクはたぶん苦手だね。
音楽での表現について、のことなのかなぁ。
『破壊』のコワさを表現することで、
『破壊』を知ろうとしていたのかもしれない。
ボクの正誤も含め皆様もご自分のココロと相談してみてね。
で。
自身が何をどう言うのもいいけども。
・・・でも。
本当はココが一番たいへんなんだけれど。
もし本当に『破壊』してしまったのなら。

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ってなるので。
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今日のイラスト:

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難しかったし、まだいびつ。
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この記事へのコメント:
安倍の晴明の世界みたいだね
流木庵{え~ちゃん}
Date2014.04.12 (土) 06:35:57|編集
いい一日を(✿◡‿◡)
~~~ヾ ^∇^おはよございます♪
今日もよろしくお願いします
Re: 流木庵{え~ちゃん}さま
Ryoji Suzuki
Date2014.04.12 (土) 10:37:41|編集
おはよう御座います♪
コメント有難う御座います。
>安倍の晴明の世界
安倍晴明さま、
その系譜では
陰陽道安倍氏の祖。
はずかしながら、
今始めて知りました♪
ですので▼以下に調べてみました^^
◇└┬┴┐◆┌┴┬┘◇
安倍晴明(wikipedia引用・抜粋)
晴明の系譜は明らかでないが、
大膳大夫・安倍益材(あべのますき)
あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。
各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する
右大臣阿倍御主人の子孫とする。
ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、
あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく
安倍宿禰晴明と記載されるものが散見される
阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、
同じく阿倍氏の一族である
難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)
の末裔ではないかとする説もある。
921年(延喜21年)に
摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。
また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。
幼少の頃については確かな記録がないが、
陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、
天文道を伝授されたという。
加茂氏の門下生であり、
のちに両家は二大陰陽家となる。
陰陽師として名声を極めた晴明は、
天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し
主計権助を務めた。
その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、
位階は従四位下に昇った。
さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が
天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、
安倍氏は晴明一代の間に師である
忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。
平安時代の陰陽師。
「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、
本来の読み方は確定していない。
鎌倉時代から明治時代初めまで
陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。
官位は従四位下・播磨守。
◇┌┴┬┘◆└┬┴┐◇
こうしてブログに書くと
皆様がいろいろ教えてくださるので、
本当に助かっております
いつも有難う御座います<(_ _)>
Ryoji Suzuki(^o^)♪
話しがちょっと難しすぎての件
gojyo
Date2014.04.12 (土) 23:57:18|編集
ヾ(* ̄ ̄ ̄ ̄▽ ̄ ̄ ̄ ̄*)ノこんばんわ♪
今日はまたずいぶんと難しいテーマで語ってるんだね
「陰陽」持ち出すなんてびっくりしちゃったよ
話しについていけてなかったら
ごめんよ~
つまるところ
Ryoji君の言う「破壊」ってのは
「破壊を恐れるな」って言葉につながって
「破壊し続けていく」って意思に到達するんだよね?
自分の心の中の
陰の部分と陽の部分ってさ
どんなカテゴリーわけされてるんだろうね?
マイナス的な言葉で表されるのが陰で
プラスが陽
って事になるのかな?
陰陽のバランスってさ
どっちが高くて
どっちが低くても
最終的には相殺されてゼロになるって言うじゃない?
Ryoji君が音楽を通してチャレンジし続けたい「破壊」っていうのは
ある意味
人が人として全うするための
人生の指針みたいなものになるのかなと思います^^
「RAGA TYPE Z」
カッコイイ名前つけたね
うんwww
これならきっと
ファンの女の子達もキャーキャー言ってくれること間違いなしだね
ってか
もしかしたら男のファンの方が多い?
上の音楽聴いてなんかちょっとそんな気がしたんだけど…
ライブ見れなくて残念だなぁ
熱いご報告
楽しみに待ってます
ガッツだぜ!! (あっ、これはジャンル違いでしたwwwww)
Re: gojyo さん
Ryoji Suzuki
Date2014.04.13 (日) 01:00:41|編集
こんばんは♪
コメント有難う御座います。
>話しがちょっと難しすぎて
ううん。
ボクの言う事は難しいかどうか、
自分では本当はわからないんだ。
自分で本当に難しいと思っていたら
書き出さないかもしれなそうだし、
書き出した以上、難しいというのは
自己「破壊」出来たのかもしれない。
でも
gojyo さんが言うのは難しく聴こえないし、
gojyo さんの言うのでボクはいい、って思うよ。
「最終的には相殺されてゼロになる」っていうのもいいよね。
その感じ、ボクは始めて聞いたけど、とてもいいと思う。
でも
「では、なにがどう相殺されるんだ?」
と、誰かが言い出したときに
だれも答えられないというのもあるよね。
gojyo さんの言う、
「どんなカテゴリーわけされてるんだろう」
というふうにひとりひとりが考えたら
みんな違うふうに答えるハズだから。
同じコトバひとつをとっても、
条件と環境で意味合いが複合化してくるし、
時間で変化する感情も付いてくるからね。
そこでさらにgojyo さんの言う
「人が人として全うするための人生の指針みたいなもの」
これも答えのひとつだったりするんだろうし、
それはそれで特に具体性のないところに答えがある、
っていうふうにこの場を切り抜けられるように
しておいてもくれているよね。
ボクにはそんなgojyoさんの優しさなら見えるよ。
「陰と陽」をなぜ持ち出したか、も、
一時の夢のような感じで湧いてきたものだよ。
言葉にしたコア(核)の思いは自身にあったにせよ、
今回のような表現をしたのはボクは始めてだよ。
ボク的にはこのような表現をする自身を褒めるんだ。
自分はもの言うのが苦手というトラウマがあるので、
言出だすときは小さい小声の自分を解放するようにしているよ。
ボクはその自分の表現から自身を気付くことが多いよ。
このコトバがでてきたときにボクが感じたのは、
「ボクの中にはこういうことがあったんだ」ということだったよ。
で、出てきてしまうと少し寂しい感じがするよ。
ああ、このコトバはボクから旅立っていってしまうんだなぁ、
って思うんだ。そこで、少し考えてみるんだけれど、
ボクは実は表現に縛られることが苦手なので、
たぶんここで表したこととは違う方向、それか、
その上でそれを上回るところに行こうとするんだと思う。
「見極める」という表現を記事でつかったけど、
その「見極める」は、ココで今言った感じになると思う。
「陰と陽」について
「難しい」「良く解らない」という
先入観みたいのが誰にもあるんじゃないか、って思う。
ボクが今回のエントリで言いたいことがあったとしたら、
「陰と陽」ってもう難しいことじゃないよね、
って言いたいんだと思う。
人は成長するって信じているのかも。
その意味では「カテゴリ」の考え方は
一見わかりやすいようで実は簡単なことを
難しくする要素もあるんだな、って、
ボクはこのコメントで気付いたよ。
ボクは前にブログ記事で
カテゴリについて少しお話したんだけれど、
ボクの中で難しくないことでもカテゴリに充てようと
したところから難しくなることもあるんだ。
カテゴリというのは突き詰めていくと、
どちらかに股をかけず収めることが目的となるよね。
その中間というカテゴリを用意する方法もあるかもしれない。
そこまでいくと疑問が湧いてくる。
いったい自分はなにをそんなに分け隔てたいのだ?
とも。カテゴリは便利だったり、調べる、
ストックする、引き出すときに役立つよね。
自分で作品なんか作り出すのにもカテゴリに依存できるときと、
そうでないものを作り出したいときもあるものなんだ。
で、ここまで話を掘り下げてくると、
すでに付いていけない人、と、
一部興味を持ってくれる人ってのでも、
分け隔てがでてくる。
ここで分け隔てが目的ならそれでいいし、
そういうことが目的でないなら、目的でないことまで
付いてきてしまうことがわかるね。
これらをひっくるめて、
使うための言葉、活用するためのコトバやカテゴリはいいんだけれど、
実際はコトバによって自分が振り回されたり、カテゴリによって、
行き詰ったりすることもあるとおもうんだ。
そこは答えをだすべきところではない、と今言ってもいいし、
時と場合によっては「答えを出すべき」なところに、
コトバやカテゴリが一躍かうときもあるね。
ボクがこのコメントのお返事を締めるのに
最後に使うコトバは・・・・
うん『ここまで一緒に読んでくれてありがとう』かな
今日はここまでにして、この先はまた今度考える、
としてみるよ♪
gojyoさん^^
いつも有難う御座います<(_ _)>
ライブの激励ありがとね♪
Ryoji Suzuki(^o^)♪
((φ(..。)
まーる
Date2014.04.15 (火) 11:10:23|編集
ということだから
今日も自由に好き勝手に書かせてもらっちゃおうっと♪φ(・ω・ )
記事をゆっくりじっくり読ませてもらって
それでこのタイミングのコメントになっているんだけれど。
戦いをただ否定しておしまい、っていうのじゃ
本当の平和はない、守れない(で合ってるかな?)・・・うん、やっぱりこれ
ひとりひとりの心の中のこと、心のおはなし、なんだねぇ。
自分にとって心地良くないもの、都合の悪いものを
ただ否定したり取り除こうとするやり方では
何も解決しないし本当の意味で幸せになれない
ってのが、今、自分の中に出てきてるよ(´,,・ω・,,`)
このマーク(太陰大極図っていうんだね、今、調べてみた)ね
自分の心の勉強の一環として3月に参加したあるセミナーで
見聞きしてきたばかりだったもんだから、なんか
「おお♪」
って思った щ(°д°щ)
んで、そのときの話としては
円=角がない → 永遠不滅(だったかな・・・) とか
白がいいか、黒がいいか、っていうとしたら、それはどちらも偏り過ぎている
というようなこととか
このマーク、白の中に黒(小さな●)があって白一色ではない、
黒の中にも白(小さな◯)があって黒一色ではない・・・とか
白と黒の間の線がまっすぐではないこととか
「中庸」ってこととか
(「中庸」を調べてみたら「中道」って言葉も出てきたり)
・・・で
「白でも黒でもないグレーゾーンに立つことが意外に難しい」
っていうような感じだった。
グレーゾーン・・・白も黒もありつつ
でも、どちらか一方に偏らない、ってことかな。
2元性?、二極思考に陥りやすいんだよなぁ。。。わたしのこと、ね(;´▽`A``
で、そうならない、を増やしていく、グレーゾーンと仲良くなっていく
みたいなことが、もしかしたら
わたしにとってのある意味『破壊』なのかも、なぁんて思ってみた(*'ー'*)
りょうちゃんの言いたかったこととは
近いかもしれないし、遠いかもしれないし、全然違うこともあるかもしれないけれど
自分なりには今回も
「なるほどなぁ」「そうだよね」
と思って、こんな風に書いてみました♪
本当にありがとう<(_ _)>
Re: ((φ(..。)まーるちゃん
Ryoji Suzuki
Date2014.04.15 (火) 12:47:28|編集
コメント有難う。
ボクからは、
「合っている」「間違っている」は
たぶん誰にも言う事ができないんだ。
「正誤がわかっているのに言えない」
ということではないよ。
もしボクに解るんだったら、
解ったときに言うことかそうでないか、も、
付いてくるんじゃないかなって少しおもう。
で、それは「もし~だったら」なだけで、
それ以上その先のことは全然わからないんだ。
・・・というスタンスでお返事書いてみるね。
「その先のことは全然わからない」と、
今ボク言ったけど、
そうはいってもココでもらったコメントは
ボクには「言うとおりだよね」って聴こえたし
ボクの気付かない角度の見方もちゃんと示してくれているので、
単純にすごく助けてもらった、有難う。
助けを求めていたかどうかもボクにはわからないんだけど、
読んで「あぁ助かった」って思った、ということは本当なんだ。
ボクがコトバをだすときに最後に思うのは
「正誤」の判断の要素が多くなるんだけれど、
これはきっと多くの人がそうおもうんじゃないかな、
って思うよ。「なにか間違ったこと書いてないかな」
というのから「誤字はないかな?」というのも含めてね。
それを含めて広い意味で「ボクは間違ってないかな」という、
問いかけをボクはしていて、そこでこういうコメントもらえたから、
「助かった」になっているんだね。今書きながら解った。
>『太陰大極図』
って言うんだねぇ、教えてくれてありがとう♪
そか、セミナーとかにも登場するんだね^^
それも教えてくれてありがとう。
>「白でも黒でもないグレーゾーンに立つことが意外に難しい」
「グレーゾーン」というコトバについては、社会的に、
あるイメージが固定しつつあるだろうから・・・
・・「ブラック●●」とかね。あまり表現としては、
ここでは適切ではないだろうな、というのが少し解る。
「二極思考に留まらない」という教えが、在る所にはある筈だから、
そういう意味では中間的な意味でグレーを用いてくるのは、
解らないではないよ。ここまで読まれた方なら、
それはボクと同じようにも捉えてくれるとおもう。
ただ「グレー」の印象を一般で統一的に定義するのは難しい。
それも解ってもらえそうな気がする。
>「どちらか一方に偏らない」というのもいいけど、
このことを会話などに用いてくる状況があるなら、
もう少し複合的に捉える必要が起こるハズなので、
限定的なイメージとしてもその意味を映し出す、
直接表現ともなり得る、
「どちらか一方に偏らない」というコトバは、
まだ、難しいことなんだな、というのが今ここで少しわかったよ。
「一方に偏らない」と、道を変えて、2⇒3になっただけ、
というイメージもついてきてしまうからなんだ。
ここは今日本人が通常で有している、
算数や国語学の基礎的教育だけでは、カンタンには
表現がとどかないところでもあるんだね。
そういうところもボクは今具体的に解った。
>「中道」
についてはボクもイメージをもっているので、
「中道」についてのハナシを「聴く」という、
その上でならまあまあ明確に意識をもっているよ。
自分のイメージを表現したい、とも思っているしね。
>「グレーゾーンと仲良くなって」
は、ボクはそのまーるちゃんの言う
イメージを理解できるけど、
一般では通用しないとおもう。
まーるちゃんは肯定的な意味で使っているけど、
企業人なんかがそれを聞くと「言うんじゃないよ!」
って笑いながら怒るとおもう。
常に経営戦略やコンプライアンスなんかで、
いわゆるグレーゾーンギリギリのラインで
毎日汗かいている部署や営業マンがいて、その観点から
「カンタンに言うな」ってとらえるハズだから。
このことはまーるちゃんには
全然理解できないだろうから、
いつか機会あるときにお話しするね。
>わたしにとってのある意味『破壊』なのかも
というのはとても柔らかく同調してくれよう
としている「思いやり」のココロを
ボクは受け取ることができます。
>「なるほどなぁ」「そうだよね」
って言えるくらいのところを表現しているつもりなので、
そう言ってもらえたことは大いにチカラになります。
このボクとまーるちゃんのやり取りに
興味をもってくださる方がいらっしゃれば、
ボクは少し楽になれるので嬉しいですし、
軽く読み流しても、全然いいんだと思います。
その人に見える見え方が大切なところのことなので、
「こうである」みたいな限定的な意味合いを、
イメージとして持たれるよりは判断の柔らかさ
という要素やきっかけになれればいいかなぁ~
ってボクは今そう思っています♪
まーるちゃん、
いつもありがと♪
今回も助けていただきました
Ryoji Suzuki(^o^)♪
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