ながれずに
ねむれないこくはく
・・・で。
前回までのエントリで、ここ10回ほど、
RAGAROCKに関するカテゴリ記事を連載した。
ここらでブレイク・タイム=休憩を挟む。
RAGAROCKから離れた位置の自分を見てみたい。
ボクのこういった心情は、音楽を生業とする方、
作曲をされる方、それを知ろうとする方にとって、
とても興味深いことなのかもしれない、とも思い付いたので、
気持ちとしては、ほんの一瞬自己の中をよぎるものだったけど、
あえて、その一瞬に留まってクローズアップして書いてみたいと、
思ったんだ。
今、ボクの中で思い廻(めぐ)っている、
リアルな意識との追いかけっこになるけど、
上手く自分自身でキャッチできるといいな。
では。
書き始めてみます。
先ず、
バンドというのは人の集まる、個の集合体なので、
ひとつの社会と言えるし、ここではそう定義するね。
この社会に属する以上、規模はどんなであっても、
プライベートとの・・・
・・・で。
前回までのエントリで、ここ10回ほど、
RAGAROCKに関するカテゴリ記事を連載した。
ここらでブレイク・タイム=休憩を挟む。
RAGAROCKから離れた位置の自分を見てみたい。
ボクのこういった心情は、音楽を生業とする方、
作曲をされる方、それを知ろうとする方にとって、
とても興味深いことなのかもしれない、とも思い付いたので、
気持ちとしては、ほんの一瞬自己の中をよぎるものだったけど、
あえて、その一瞬に留まってクローズアップして書いてみたいと、
思ったんだ。
今、ボクの中で思い廻(めぐ)っている、
リアルな意識との追いかけっこになるけど、
上手く自分自身でキャッチできるといいな。
では。
書き始めてみます。
先ず、
バンドというのは人の集まる、個の集合体なので、
ひとつの社会と言えるし、ここではそう定義するね。
この社会に属する以上、規模はどんなであっても、
プライベートとの・・・
・・・・切り分けが生じてしまう。
具体的な生活のことではなくて、
意識みたいなところのことだけど。
たぶん人間なのだからしようがない、
とも思えるし、ポジティブにとらえるなら、
その二面性を露出する、という発想についても、
時代は、もはや制限を必要とすることもないだろうな、
なんてかなり自己の主観に偏るけど、
なおも楽観的に考えてみよう、そんなふうにも思う。
RAGAROCKに関して過去音源や過去動画を用いること、
用いれば用いるほど、ボク自身がこの動作の直前に取組んでいたこと、
ボクの個としての「叫び」が、RAGAROCKの事を積み重ねるのと併行して、
自身に聴こえ、そして響いてくるんだ。
ここで具体的に表せば、2014年2月頃のエントリ、
それ以前のエントリで継続している諸々の所作だ。
「制作中」のカテゴリ記事、「musescore」の記事、
つまりブログで綴っている今より少し前の自分のことだね。
ボクがこう言い出す、
これらの傾向は、不可思議というふうにも、
ブログに限らず自己に対し昔から感じていた。
バンドに関する自己の係りが増えるほど、
自身の内側から放出する音を保守しよう、
とした行為が自分のとるべき道筋に、
自分の手によって交錯してくる。
このことで時には言い争いになることもあった。
どんな場面で、か、というと、
バンド用のデモ音源、そうでない作品音源が、
ボクによって制作され、それを同時に聴くタイミングにあった、
メンバーなどから、以下のように指摘される、という時のことだ。
『バンドは己の全てを投入するもので』
『メンバーとの共有、共にある価値観が重要で』
『そこでは我侭がゆるされない』
的な言い争いだった、と、記憶する。
このように文書に表すと、
今さらながら『変』な価値観だったな、と気付く。
このことはこれ以上追求しない。
こう言いたい側の気持ちやそういった、
時代背景や慣わし的なことが今ならわかるし、
またそれを理解できなかった自分の気持ちも、
今ならそこそこ理解できることもあるからだ。
ボクはここで、
なにを言いたい、なにをどう思いたいか、というと、
個の保守的な側面と、ここでいうバンドなる社会的な面を、
将来的最終的には統合したい、
と思っているんだと、自己を想像するけど、
それってけっこう至難なワザかもしれなくて、
ボクの次元のレベルでは、
本当にたいへんなことかも、って、そうおもっているんだ。
一見、流れにのっているかのようで、
ところがその流れの中に身をうずめ、
いつしか、しっかり沈みきってしまった、
もうひとりの弱々しい自分。
もしくはエゴイスティックな自分。
そうなってしまった、
うずもれ沈みきってしまったとして、
もう見えなくなってしまった、その、
個(自己)の解放や、自身を発掘すること、
奥深くにしまいこんでしまった、
自分を引き出すのには、
なかなかタイミングや偶然、
人の助けを要することも多くて、
個(自己)のみ、では、
うずもれ同化し見ることもできない、
回りの流れの主導も、自身に当り前となり、
うずもれた自己を気付くことも許さない、
そんな印象が・・・今見える、
こう見えていることがかすれ消えてしまう前に・・・
・・・今。
この感じを書き留めておこうとしている。
難しいことであるのは承知している。
そこで今回、記事タイトルでいうところの「流れずに」は、
『流されてしまわない』という思いを込めて表題とした。
RAGAROCK自体が、個と別物なわけではなくて、
RAGAROCKは勿論ボク自身である。
また、仲間が別もの、というわけではなくて、
限りなくボク自身に近い仲間が集まっている。
ボクにしてみれば、
自分自身の内なる対話より、
むしろ、この仲間達こそ、多くの対話をし、
またそれほど多くの時を共に過ごしてきたわけで、
それは、本当に本当に単に事実なんだ。
それだからこそ、何故ボクがこうして、
精神面でも、ひととき間をおいて、自分のこと、
斯様に100%自己の管理下にある制作音源を、
載せる行為を取り扱うか、
仲間との(最も)リアルでない自己を、
あえて、表現するかのような行為を選択するか、
そういったことをこんなふうに、
文字にしたためてまで、書き表したいと、思うか、
言い表したい、と、思うのか、それが何なのか、
実は未だ自分では良くわかっていないんだ。
ただ、心あるブロガーさんから、
心理カウンセリングの情報を頂戴していて、
ボク流の表現にはなるけれど『自分を認める』
『自分のどんな小さな思いでも、押し込めずに』
『引き出してあげる』ということが、
ボク個人に関わらず、みんなにとって必要なこと、
そういうふうに感じるので、
ボクはそういった自分を引き出すことに、
ここ最近気をつけている、実行している、
そんな姿勢も重なり、今このタイミングで、
ここで現れてきているんだと、思っている。
勢い、や、慣わし、的に、思うと、
RAGAROCKのイベントがスケジューリングされていて、
その現実があるのだから、
その流れに沿い、どんどん、宣伝をするとか、
ユーザーを引き込むとか、が、常道、それか、
セオリーなのかもしれないけど、あえて、
ここで、自分を引き出し、それによって、
自己の統合の足がかりにしたいかな、
自身によって置き去りにされる自分のないように、
バンドと個が気付かずかけ離れてしまわないように、
そんなふうに思うのかな。
難しい表現をしたのかもしれないけれど、
ボク的にボクの内面を表すのには、
今用いた表現がもっとも手軽で、リアルなタイミングだったんだ。
その意味でも『告白』という、表現を用いてみた。
到底言い表すことも不可能に思えた、
内面の叫びに気付き、ここに表してみた。
『告白』というコトバについて、
ボクは知識が足りなく、また経験もすくない。
もし意味が違ったらその点はお詫びしておく。
【今日の音楽】
≪音源及び動画のカンタンな解説とリンク≫
“桃色の朝焼け”は、
まだ制作途中にもかかわらず、
このまま放置すれば制作途中なことも忘れてしまいそうだ。
中盤~後半はひとつの素材にすぎないし、どこをどうするか、
発想すら浮んでいない。
“朧雲”は、力作だけれど、なんていうか、
ポピュラーではないし、ギターを手にとって
さっと歌えるようなアレンジを施していない。
この制作では「プログラムとの対話」が目的でもあるけど、
それはそれで、ボクの意思なんだからいいんだけれども。
・・・リアル空間から少し離れたブログという時空に存在している、
ということを自分でしっかり認識できるようになれるといいんかな・・・
動画“FG-250 YAMAHA”
2014年6月1日。沼田にて。MARの所有するアコースティックギターFG-250 YAMAHAを使用しRAGAROCKの楽曲「yeah!」を演奏するMARのことをボク(Ryoji Suzuki)が撮影している。ここではFG-250の音をカメラマイクで収録することに目的をおいている(限定公開)。個展(絵画展)の待時間を有効利用。
【( ・ω・)っ歌詞です♪】
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ロイミティ( ・ω・)_旦~~どーぞ♪







今回記事を書いてみて、
ひとつの結論なんだけれど、
『バランス』という意識が、
自分を支えているんかな、
なんて気付きそうになっている。
2種の相対的な現象(作品)を手にする事で、
その中間に位置する自分に居場所を感じる。
『リアルなセッション』と『プログラムとの対話』。
「RAGAROCKの楽曲群」と「自己管理の楽曲群」。
(自己管理の楽曲群とは:ブログ内“Band Styleカテゴリ”の他全て)
今回はその関係の何らかを表そうと試みているんかな・・・・
それと。
そもそも作品を切り分けるな、
という考え方、持つ方もいるとおもう。
うん。そうなんだ。
でも、バンドのスタイルってのがあって、
そこに馴染ませるのには、
逆説的に分別を用いることもあるんだ。
2~3曲と題材があるとき、
必然、メンバーみんなのイメージが集まりやすいもの、
という素材も現れてくる。
みんながみんな『なんでも来い!』
ってなれるまで、ある程度の期間や、
それなりの経験がいるものなんだ。
音楽ってホント、長い旅なんだね・・・
ご来訪有難う御座います。
Ryoji Suzuki(^o^)ナガレズニィ♪
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具体的な生活のことではなくて、
意識みたいなところのことだけど。
たぶん人間なのだからしようがない、
とも思えるし、ポジティブにとらえるなら、
その二面性を露出する、という発想についても、
時代は、もはや制限を必要とすることもないだろうな、
なんてかなり自己の主観に偏るけど、
なおも楽観的に考えてみよう、そんなふうにも思う。
RAGAROCKに関して過去音源や過去動画を用いること、
用いれば用いるほど、ボク自身がこの動作の直前に取組んでいたこと、
ボクの個としての「叫び」が、RAGAROCKの事を積み重ねるのと併行して、
自身に聴こえ、そして響いてくるんだ。
ここで具体的に表せば、2014年2月頃のエントリ、
それ以前のエントリで継続している諸々の所作だ。
「制作中」のカテゴリ記事、「musescore」の記事、
つまりブログで綴っている今より少し前の自分のことだね。
ボクがこう言い出す、
これらの傾向は、不可思議というふうにも、
ブログに限らず自己に対し昔から感じていた。
バンドに関する自己の係りが増えるほど、
自身の内側から放出する音を保守しよう、
とした行為が自分のとるべき道筋に、
自分の手によって交錯してくる。
このことで時には言い争いになることもあった。
どんな場面で、か、というと、
バンド用のデモ音源、そうでない作品音源が、
ボクによって制作され、それを同時に聴くタイミングにあった、
メンバーなどから、以下のように指摘される、という時のことだ。
『バンドは己の全てを投入するもので』
『メンバーとの共有、共にある価値観が重要で』
『そこでは我侭がゆるされない』
的な言い争いだった、と、記憶する。
このように文書に表すと、
今さらながら『変』な価値観だったな、と気付く。
このことはこれ以上追求しない。
こう言いたい側の気持ちやそういった、
時代背景や慣わし的なことが今ならわかるし、
またそれを理解できなかった自分の気持ちも、
今ならそこそこ理解できることもあるからだ。
ボクはここで、
なにを言いたい、なにをどう思いたいか、というと、
個の保守的な側面と、ここでいうバンドなる社会的な面を、
将来的最終的には統合したい、
と思っているんだと、自己を想像するけど、
それってけっこう至難なワザかもしれなくて、
ボクの次元のレベルでは、
本当にたいへんなことかも、って、そうおもっているんだ。
一見、流れにのっているかのようで、
ところがその流れの中に身をうずめ、
いつしか、しっかり沈みきってしまった、
もうひとりの弱々しい自分。
もしくはエゴイスティックな自分。
そうなってしまった、
うずもれ沈みきってしまったとして、
もう見えなくなってしまった、その、
個(自己)の解放や、自身を発掘すること、
奥深くにしまいこんでしまった、
自分を引き出すのには、
なかなかタイミングや偶然、
人の助けを要することも多くて、
個(自己)のみ、では、
うずもれ同化し見ることもできない、
回りの流れの主導も、自身に当り前となり、
うずもれた自己を気付くことも許さない、
そんな印象が・・・今見える、
こう見えていることがかすれ消えてしまう前に・・・
・・・今。
この感じを書き留めておこうとしている。
難しいことであるのは承知している。
そこで今回、記事タイトルでいうところの「流れずに」は、
『流されてしまわない』という思いを込めて表題とした。
RAGAROCK自体が、個と別物なわけではなくて、
RAGAROCKは勿論ボク自身である。
また、仲間が別もの、というわけではなくて、
限りなくボク自身に近い仲間が集まっている。
ボクにしてみれば、
自分自身の内なる対話より、
むしろ、この仲間達こそ、多くの対話をし、
またそれほど多くの時を共に過ごしてきたわけで、
それは、本当に本当に単に事実なんだ。
それだからこそ、何故ボクがこうして、
精神面でも、ひととき間をおいて、自分のこと、
斯様に100%自己の管理下にある制作音源を、
載せる行為を取り扱うか、
仲間との(最も)リアルでない自己を、
あえて、表現するかのような行為を選択するか、
そういったことをこんなふうに、
文字にしたためてまで、書き表したいと、思うか、
言い表したい、と、思うのか、それが何なのか、
実は未だ自分では良くわかっていないんだ。
ただ、心あるブロガーさんから、
心理カウンセリングの情報を頂戴していて、
ボク流の表現にはなるけれど『自分を認める』
『自分のどんな小さな思いでも、押し込めずに』
『引き出してあげる』ということが、
ボク個人に関わらず、みんなにとって必要なこと、
そういうふうに感じるので、
ボクはそういった自分を引き出すことに、
ここ最近気をつけている、実行している、
そんな姿勢も重なり、今このタイミングで、
ここで現れてきているんだと、思っている。
勢い、や、慣わし、的に、思うと、
RAGAROCKのイベントがスケジューリングされていて、
その現実があるのだから、
その流れに沿い、どんどん、宣伝をするとか、
ユーザーを引き込むとか、が、常道、それか、
セオリーなのかもしれないけど、あえて、
ここで、自分を引き出し、それによって、
自己の統合の足がかりにしたいかな、
自身によって置き去りにされる自分のないように、
バンドと個が気付かずかけ離れてしまわないように、
そんなふうに思うのかな。
難しい表現をしたのかもしれないけれど、
ボク的にボクの内面を表すのには、
今用いた表現がもっとも手軽で、リアルなタイミングだったんだ。
その意味でも『告白』という、表現を用いてみた。
到底言い表すことも不可能に思えた、
内面の叫びに気付き、ここに表してみた。
『告白』というコトバについて、
ボクは知識が足りなく、また経験もすくない。
もし意味が違ったらその点はお詫びしておく。
【今日の音楽】
▼桃色の朝焼け
[03min47sec]
◆title : 『◆桃色の朝焼け(作曲:Ryoji Suzuki)』

■著作・制作 /鈴木亮司 (c) Ryoji Suzuki 2014
←FG-250 MARをボクが撮影 2014年 |
≪音源及び動画のカンタンな解説とリンク≫
“桃色の朝焼け”は、
まだ制作途中にもかかわらず、
このまま放置すれば制作途中なことも忘れてしまいそうだ。
中盤~後半はひとつの素材にすぎないし、どこをどうするか、
発想すら浮んでいない。
“朧雲”は、力作だけれど、なんていうか、
ポピュラーではないし、ギターを手にとって
さっと歌えるようなアレンジを施していない。
この制作では「プログラムとの対話」が目的でもあるけど、
それはそれで、ボクの意思なんだからいいんだけれども。
・・・リアル空間から少し離れたブログという時空に存在している、
ということを自分でしっかり認識できるようになれるといいんかな・・・
動画“FG-250 YAMAHA”
2014年6月1日。沼田にて。MARの所有するアコースティックギターFG-250 YAMAHAを使用しRAGAROCKの楽曲「yeah!」を演奏するMARのことをボク(Ryoji Suzuki)が撮影している。ここではFG-250の音をカメラマイクで収録することに目的をおいている(限定公開)。個展(絵画展)の待時間を有効利用。
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♪ツユイリヽ( ・◇・)_♪いらっしゃい♪_(・ω・ )っシタヨ♪
ロイミティ( ・ω・)_旦~~どーぞ♪

【“朧雲” 歌詞】
私
ただ
朧雲
十六夜
あなたと潤む二人で
見上げる宵の
静かな
『弧』
描いて・・・
光浴びて
あたたかく
あなたのそばで
永遠のとき想う
眠らずに・・・
私
ただ
朧雲
二十三夜
あなた面影隠せど
指の隙間すり抜けた
風
のりて
季節の過ぎるさまとは
『忘却と眠り繰り返す』
夢のまま
今は
戻らない
あなたの
もとへ
ゆこう







▼
▼
▼
以上・・・そうだ、、、
私
ただ
朧雲
十六夜
あなたと潤む二人で
見上げる宵の
静かな
『弧』
描いて・・・
光浴びて
あたたかく
あなたのそばで
永遠のとき想う
眠らずに・・・
私
ただ
朧雲
二十三夜
あなた面影隠せど
指の隙間すり抜けた
風
のりて
季節の過ぎるさまとは
『忘却と眠り繰り返す』
夢のまま
今は
戻らない
あなたの
もとへ
ゆこう

▼
▼
▼
以上・・・そうだ、、、
今回記事を書いてみて、
ひとつの結論なんだけれど、
『バランス』という意識が、
自分を支えているんかな、
なんて気付きそうになっている。
2種の相対的な現象(作品)を手にする事で、
その中間に位置する自分に居場所を感じる。
『リアルなセッション』と『プログラムとの対話』。
「RAGAROCKの楽曲群」と「自己管理の楽曲群」。
(自己管理の楽曲群とは:ブログ内“Band Styleカテゴリ”の他全て)
今回はその関係の何らかを表そうと試みているんかな・・・・
それと。
そもそも作品を切り分けるな、
という考え方、持つ方もいるとおもう。
うん。そうなんだ。
でも、バンドのスタイルってのがあって、
そこに馴染ませるのには、
逆説的に分別を用いることもあるんだ。
2~3曲と題材があるとき、
必然、メンバーみんなのイメージが集まりやすいもの、
という素材も現れてくる。
みんながみんな『なんでも来い!』
ってなれるまで、ある程度の期間や、
それなりの経験がいるものなんだ。
音楽ってホント、長い旅なんだね・・・
ご来訪有難う御座います。
Ryoji Suzuki(^o^)ナガレズニィ♪
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この記事へのコメント:
世のなかバランスで成り立っています
流木庵{え~ちゃん}
Date2014.06.08 (日) 04:34:13|編集
___
/ || ̄ ̄|| ∧∧
| ||__|| (´・ω・`) オッハー!
| ̄ ̄\ 三 ⊂ / ̄  ̄/
| | ( ./ / 素敵な一日を
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ピクニックのような、、、
低血圧のんき虫
Date2014.06.08 (日) 20:55:59|編集
いつもお世話になっております。
なんとまぁ、キモチのよさそうなところで演奏、、、
いいですねぇ。
MARさんの弾く、ギターの音色!と口笛も
とてもいい、、いいなぁ、、、
こういう感じ、好きだなぁ、、、、
もっと観ることができたら
いいのになぁ。
限定公開か、、、。
管理人のみ閲覧できます
-
Date2014.06.08 (日) 23:05:15|編集
Re: 流木庵{え~ちゃん}さま
Ryoji Suzuki
Date2014.06.09 (月) 20:14:32|編集
こんばんは。
コメント有難う御座います。
>世のなかバランスで成り立っています
仰る通りですよね。
“バランス”。
バランスを失くしては、
なにもかもアンバランスになる、
それは想像もつかない次元なのでしょう。
バランスの中にある自由なアンバランスや、
アンバランスからバランスに移行する様は、
ときおり、面白い現象を体験できますね。
絵画や音楽にはよくあるモチーフかも知れません。
バランスが安定だとしたら、
アンバランスは不安定とも言えそう、
でも、安定ばかりでは、安定そのものが、
無感覚になり、そうすると、時折不安定を、
望むことで、バランスを感じる、
バランスに向かおうとする、
そういう人間の心理に翻弄されることも、
しばしばある気がします。
ボクは、バランスという意識にある、
その上での、高次な領域に興味があります。
バランスとアンバランスが
コントロールできるようになるなら、
その先の現象には何か面白いことが、
ありそうな気がして、そんな想像を、
楽しむことも、楽しみのひとつです
いつも有難う御座います<(_ _)>
Ryoji Suzuki(^o^)♪
Re: 低血圧のんき虫 さま
Ryoji Suzuki
Date2014.06.09 (月) 20:16:15|編集
こんばんは。
コメント有難う御座います。
それは今月の6/1の事でした。
沼田の絵画展での待ち時間を利用し、
二人で練習していたときの動画です。
光が透き通っていて、
風が乾いていました。
時々の強風に木々がざわめきます。
気温は高めだけれど、
木陰は過ごしやすい陽気でした。
アコースティックギターの音を、
手持ちのカメラでより良く収音しよう、
と思い収録したもので、ほぼ意図通りに、
収録できました。
良い評価を有難う
いつも有難う御座います<(_ _)>
Ryoji Suzuki(^o^)♪
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