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それぞれが

ねむれないみえかた

・・・で。


前々回のエントリまで、
RAGAROCKカテゴリに関する記事を連載したが、
前回のエントリでブレイクタイムを挟んだ。
その延長でもうひとつ、面白い視点にたって書いてみる気になった。

それは、
「RAGAROCKな自分 a. 」と、
「RAGAROCKから離れた自分 b. 」、
さらにその『両者を見る自分 [ c ] 』というものも、
書き表してみたい、そのように気付いた。

3方向の視点 [ c ⇒ { a.+b.} ] プラスもうひとつの視点〔d 〕から。

〔d:第4者〕=[〔c:第3者〕⇒{ (当事者)a.+(当事者)b. } ]

今日はその『もうひとつの視点〔d:第4者〕』から、
『その両者を見る自分〔c:第3者〕』を自己評価する。
果たして自身の統合に近付いてきているのだろうか。


『{a+b}の両者を見る自分〔c:第3者〕』については、
ある心あるブロガーさんから、
このような助言を・・・
 

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・・・授かった。

----------------
【非公開コメントの一部】

軽はずみなコメントは、
してはいけない気がしましたので(非公開とします)。

・・・ただひとつ私が感じることは
「RAGAROCKの楽曲群」と「自己管理の楽曲群」
これらって 境目がほとんどないぐらい
同じものなのではないかと思うのです。

深い意味はなくて、あくまで感覚的なものとして。

どちらもRyojiさんが係わってるものだから
当前といえば 当前なのでしょうけども。

ここで私が言いたいことは どの作品にも
十分すぎるぐらいRyojiさんの音っていうのか、
色が反映されてるってことでしょうか。

このブログに登場してくる
「RAGAROCKの楽曲」をチョイスしてるのはRyojiさんですから
私がそう感じてしまうのも 当然のことなのかもしれないけど。


・・・コメンテイターが特定されないよう、
ここでは表現を修正してみました。

----------------

このコメントの視点を、
ボクRyoji Suzuki 自らお借りする。

このコメントの視点では、
前回『RAGAROCKから離れた自分を見てみたい~』という、
視点で見ているボク自身をさらに後ろから見ている視点が
あることを、ボク自身に気付かせてくれたんだ。

前回の記事に登場した、
争いごとでの「相手の言い分をわかる自分[c.]」や、
バランスを意識することで「居場所を感じる自分[c.]」
も、そういった表現をここに持ち出している以上、
『ボク自身をさらに後ろから見ている』自分が、
僅かにその頭角を現していたわけだ。
これが〔d:第4者〕的視点の始まりだ。

まず、その存在に自らが気付いた、ということが、
重要なひとつのこと~つまり“1点目”だ。


そして、このココロあるコメンテイターさんによって、
『境目がほとんどないぐらい同じもの』との表現がなされていた、
この“非公開”コメントを受取り、開いて中身を見たときに、
『おぉ!』『うん、実にそうなんだ』という相槌が、
ボク自身によって発せられた第一声であったんだ。
この発声者を〔c:第3者〕的視点のボクの存在の確定、と見る。

ここが大切な“2点目”だ。


そして今回の記事のポイント:

[c⇒{a+b}]などと、
“切り分ける言い方をすることで、
実はひとつのコトとして気付く”
という発想。
(発想ということに気付く〔d.〕の存在が重要)


ここが、“1点目”“2点目”という、
二つの重要な点を結び付ける、
とてもとても大切な“3点目”なんだ。


その“3点目”について、思い当たること、
ボクの想像に関連があるところについて、
普段のイマジネーションが炸裂したんだ。
いくつか、時系列に分けて例えてみよう。
(今日もいよいよ“大きい”のでるぞw)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【銀河創世~テラ(太陽系)地球人類の場合】

【創世】
ひとつのこと、ひとつの意識の芽生え上で、
ひとつでありながらそれをひとつと知るために、
いわばどこから見ようとしても、ひとつであるが故に、
見る事がかなわない、その実を同じモノとして認識したいが為に、
もしくは同じ所のメカニズムがどういうふうになっているか、など、
(・・・外的認識が不明なため)
まず異なる側面から、物事をみてみることで、
よりひとつに見えるのではないか、と発想する。
(現代ならvideo cameraまわせばよい?でも意識は映らない・・・)

【膨張】
異なる側面から、物事をみるのに、
ひとつのものとしての意識を2つ(or多数)に分断する。
(意識元が高次的光エネルギーなら分断はカンタンか)

【支配と指導(神話の数々)太古~D.C.】
2つ(or多数)に分断した意識を極限に近く別なものとするため、
それぞれを異なる環境へ、意識を放り込む、
もしくはそれぞれが異なる環境を選択する。
意図的に断片化する、断片化させる。
(星間戦争が起きたり新星爆発で散り散りに・・・の行く末とか)


▲地球史:アレックスコリアー氏、レクチャー2002年


【社会(歴史プロセスの開始)D.C.~A.D.】
異なった環境から、まったく異なった、
表現や見え方、価値観を育成する、育成される。
(通常の歴史観やその範囲、過去の義務教育など)

【A.D.~近代】
あるとき、その「異なった表現や見え方、価値観」について、
共有する理由とその動機に自然に気付き、元本の目的のため、
ひとつのところに集まろうとするプロセスを求める。
(ここでは例えば行き着いたところでは、
インターネットやテクノロジーの変遷などで、
遡れば貿易や経済概念、民族間紛争の開始も含む)

【現代】
独立した異なる側面から、異なるモノとして見えているものを、
ひとつの場面(ひとつのところに集まるプロセス)で持ち寄る。
(オリンピック、学説、芸術、ある意味TPPなど)

【認識】
ひとつの場面で見える、感じる、様々な要因について、
なにが気持ちの良いことか、それぞれの価値を有する、
別個において、共通する概念が存在していることに気付く。
(物理次元=手触り・実感・数値|精神次元=シンクロ・共有など)
(経済概念などはある意味崩壊の一途を辿っている最中か)

【現在~未来】
共有や共通という概念を用いたことから、
創世時分断するに至るまで、気付けなかった、
見たかったもの、得たかったこと、について、
個別の視点を通すことで、大いなる全てとして、
全てが癒着してると見えなかった物事の核(コア)はなんなのか、
と、感覚的に気付く、というプロセスが開始される。
(初歩的な心理カウンセリングの発展、ネトゲ、
支配や通俗的な歴史科学と相対する位置にある、
スピリチュアル概念の台頭や心理支援士の台頭、
人間種に必要な農耕を主とする産業概念の復活、
その上でのテクノロジーやエネルギー技術など)

・・・とかなんとか言っても、現世一般が納得するのには。

「科学的根拠がこうです」「学説的に証明できます」
「動画があります」「古代史権威により証明されました」
ってならないと、わかんないことなのかも。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここに書いたことは、ボクにとって、
ボクから見える「世の見え方」では、
経過段階として、ひとつの小結論だ。

ボクがなぜ、個として生を受けたのか、
について、ボク自身が納得できる一面が、
ここに示されている←“個別の側面が大切”

また個というものが、どういうことなのか、
もここに示されている←“持ち寄る要素”

さらに、個と個の統合というものへの、プロセスの開始が、
ここに示されている←“みんなで「わーい♪」ってする”

ボク自身は自身の内でもまだ統合していないし、
外観は兎も角、誰かと認識上統合されているわけではないので、
(あっ、バンドって統合のシュミレーションなんかな?)
そこに到達するためのプロセス半ばにある、というわけだ。


・・・まったくもって、ここに表した、
ボクの意識は単純で、何十年か生きて、
こんなことしか考えれていない、が現状だ。
この地球人類の物理次元では、
こんなカンタンなことをハナシするのにも、
誰かに伝えようとするのにも、言語の違い、
制約や環境の異なり、性格の異なりも含め、
とにかく一筋縄ではいかない・・・
(だから音楽で表現するんかな・・・?)
おそらくボク自身がココで書いた事さえも、
自己否定し、分断や破壊するところから、
自身が始めないと、何か通じる道を探すきっかけや、
拠り所さえ「心もとない」のが現実のイメージだ。


【今日の音楽】

▼La.La.La




Texte alternatif


[03min32sec]
■著作・制作 /鈴木亮司 (c) Ryoji Suzuki 1986-2014

←kgs練習風景 2014年




音楽の解説:

“夢飛行(Sleep Walk)”は、このブログ『ねむれないあなたへ』に相応しい楽曲で、2011/6/4に公開した。

“La.La.La(タイトル忘却)”は、RAGAROCKの以前にボクがやっていたバンドの名前で、この曲のタイトルを忘れてしまったので、バンドネーム『La.La.La』を、そのまま曲のタイトルにしてある。思い出したら改めるのかも。

“KGS(野外・練習テイク)”2014年6月1日。沼田にて。MAR & Ryoji Suzuki がRAGAROCKで演奏する、HIROKAZさんの楽曲・KGS(キリギリス)のギターパートを二人で練習しているひとコマ。動画左の珍妙な物体は燕市でMARが購入した美しいヤカン。UFOじゃないよwボクの演奏姿はこのヤカンに映っている。エレキギターはアンプなしで演奏。



・・・ハナシをもどそう。


そんなわけで。

今ボクの『統合的化身?』が、
ここで留まり思い悩んでいるのは、
『拠り所さえ「心もとない」のが現実のイメージ』というやつだ。

『その両者を見る自分(第3者)』を評価する、という点では、
“よく2極性の見方での両極を視野にいれたね”
“またそこのバランスという意識によく気付いたね”
という点、前回エントリに書き表した点を認めてあげること、

さらにその後方からボクを見るボク(第4者)の意識は、
『拠り所さえ「心もとない」のが現実のイメージ』であるのを、
認識し、そのプロセス(到達するためのプロセス)の途中にあるということ、
そこの次元的位置関係を認識し、行くべき道、選択するべき道を決めていく、
ということになるんかな、と気付きつつある。

そこで、
『選択するべき道』について、
選択もなにもない、ボクにはなぁ~んにも見えていない。
だから創造なんかな、創りださなきゃなんないんかな、
なんだ、音楽を創作するのと一緒か、『はぁ~』と、
ため息をつくのが、ボク自身を見ようとする、
『第4者的立場のボクの性格』であるのかもしれない・・・
と、ここまでの独りゴトを書いてみて何か“うむむむぅ”だなぁ・・・
なんて思っている。


【( ・ω・)っ歌詞です♪】


▲おきてがみのバナー

♪ピッチピッチヽ( ・◇・)_♪いらっしゃい♪_(・ω・ )っチャップチャップ♪
ギョクロ( ・ω・)_旦~~どーぞ♪
















【La.La.La歌詞】

朝の光を 浴びながら 
一人で走る あてもなく
  
昨日のことさえ 忘れたフリをした
自分の愚かさに キズついて

サビついた 思いが 今でも
確かに 影を引きずってる
    
繰り返してばかり いるのさ
何かを見つけたつもりでも


心の迷いを 感じながら
一人で走る あてもなく

どうにもならない
どうしようもできない
自分がはがゆくて  






















以上です


ご来訪有難う御座います。
Ryoji Suzuki(^o^)ヒトリゴト♪



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Date: 2014.06.12 Category: 作曲と制作  Comments (2) Trackbacks (0)

この記事へのコメント:

二重人格いや多重人格かもしれない

流木庵{え~ちゃん}

Date2014.06.11 (水) 05:33:59|編集

今日は風呂行です
(^_^)/お早うございます
   ∩_∩
  (#´・ω・) 。◯  元気に暮らしてますか?
#゚+。∪⌒∪⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒。+゚&
   今日もよろしくお願いします

Re: 流木庵{え~ちゃん}さま

Ryoji Suzuki

Date2014.06.11 (水) 09:40:46|編集

流木庵{え~ちゃん}さま

おはよう御座います♪
いつもコメント有難う御座います<(_ _)>

・・・仰るとおりですね。
同じように思われた方、
いらっしゃるかもしれません。

(今回は公開コメントというこの場をお借りして、
皆さま向けのメッセージをここに書いて見ます)

でも、この欄を読まれるみなさん、ご安心ください。
ボクはボクであり一人の人間であることは事実です。

また、そうしたボクが、
こういった記事を書くことで、
いかなるジャッジを受けたとしても、
そのような表現を頂戴したことに感謝し、
その上で自分がそうでない、と自覚できることであれば、
その自覚を自身に呼び起こすことができるでしょう。
それらはボク自身で解決できる場合も多くあり、つまり、
コメントを頂戴できる事自体とても有難いことなのです。

ところで、
『2重人格』や『多重人格』が、
世間ではどういうふうな意味で、
用いられている表現でしょうか。

ボクは、ボクのブログユーザーで、
『2重人格』や『多重人格』という表現に、
苦しんでいる人がいないかどうかが、
少し気に成ります。

そういう方のため、
軽微な誤解を誘発しないために、
ここでは強く申しておかなければ
ならないことがあります。

勿論流木庵さんは悪意をもってして、
『2重人格』や『多重人格』という
表現を用いて居られるのではないと信じております。

またボク自身、『2重人格』や『多重人格』という
表現について、なんのために一般の人が
そういう形容を用いているのか、
あまり理解できていません。

▼過去の記事
http://00ryoji.blog54.fc2.com/blog-entry-161.html

ボクは上記事で『多重人格』という表現を用いたとき、
それ以後反省する時間を多く持つことになりました。
人格が時折変化することはその範囲の如何も含め、
多かれ少なかれどんな人にもあることでしょうが、
要はそのために自己になんらかの
不都合がある場合は多く悩まれる
ことにもなっているに違いありません。

もし悩まれている方が居られたり、
身近にそういう方が居られたり、
自己の中のそういう別人格な自分について
出てこないようコントロールされている方も
おられる、いわば、個人の領域のことですので、
自分のことや慎重な表現はともかく、軽はずみ、
且つ介入的な表現は控えるほうがいいんだろうな、
そう判断できることでもあるかもしれません。

ボク自身こそ最もですが、
みなさまもどうかひとつ、
心にお留め置きくださいv-22

流木庵{え~ちゃん}さま、
いつもボクの良い部分を引き出して
くださり誠に有難う御座います<(_ _)>
Ryoji Suzuki(^o^)♪

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